沖縄本島のほぼ中央、東シナ海に大きく突き出した岬が残波岬で、高さ30mから40mにも及ぶ隆起サンゴ礁の絶壁が2kmに渡って続く景勝地となっています。かって、地方の道路は、那覇や首里を除き馬車等が行き交うほどの幅員はなく地方への往来はほとんど海路が利用されていました。レーダー等が無かった昔の航海は、星と地上物件を目当てとしており、この岬は大きな:目標とされていたと思われます。「おもろさうし」(沖縄最古の古謡集)によれば、「この岬をかわすおざ時には、手を擦って祈り船を走らせなさい」と記されており、宇座誌(地元郷土史)「残波の里」には、航海の安全を祈る神の屋として「東の神の屋、西の神の屋、潮吹ガマ」があると書かれています。古来より、本土から、そして山原から那覇へ向かう船には、神に祈る心境にさせるほどの航海の難所となっていたようです。また、この地は昭和20年4月1日、米軍はこの岬を目印に激しい砲撃を加え上陸を開始、あの悲惨な沖縄戦が始まった地でもあります。
残波岬灯台の歴史
残波岬灯台は、当地が未だ米軍の実弾演習場として使われ、立ち入り禁止区域になっていた昭和48年に地元の海運関係者からの強い要望たより建設を開始しました。連絡が米軍のゲートに届いていなかった為に門前払いをくったり、突然の演習で工事をストップさせられたりと、他では味わえない苦労を重ねながら翌年の年度末ギリギリ3月30日に何とか完成させることが出来たとのことです。現在同地区は、南西諸島随一の高さ(約31m)を誇るこの灯台を中心とした公園として生まれ変わっており、沖縄本島の観光の目玉ともなっています。
余話
琉球王朝時代、初めて明(中国)に進献し、明の進んだ文物を沖縄にもたらしたのは、1372年、当時の琉球王の名代として渡った読谷村宇座の泰期といわれています。その後、当地は明との交流の玄関ロとなっていたと思われ、残波岬の近くの長浜には「トウシングムイ(唐船池)」や「トウシンシー(唐船岩)」等、唐船を係留した場所といわれる地名が残っています。
残波岬の少し東よりに、沖縄三線の始祖と呼ばれる「赤犬子(あかいんこ)」の宮があります。赤犬子は今から500年ほど前「唐」から渡り、沖縄に三線と歌を広めたとされています。また、この地に五穀も持ち込んだとされており、琉球音楽の始祖そして五穀豊穣をもたらす神として崇められています。
資料展示室の開設
日本財団からの助成並びに読谷村の協力のもと灯台資料展示室の整備を進めておりましたが、平成21年2月27日に完成しました。
灯台資料展示室の構成は次のとおり
日本の灯台のルーツと歴史、灯台をかたちづくるもの(色・形・素材)、これが灯台の光のもと、地球にやさしい航路標識、灯台は、航路標識の代表、灯台の縮小模型
開設式典に参加した地元保育園児たち
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残波岬灯台の灯器
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●残波岬灯台リーフレット
残波岬灯台リーフレットをPDFで公開しています。画像をクリックして下さい。
●灯台へのアクセス
☆航空便
・東京(羽田)~沖縄(那覇) 約2時間50分
・大阪(関西)~沖縄(那覇) 約2時間10分
・福岡 ~沖縄(那覇) 約1時間40分
☆自動車
・那覇空港~国道331号、58号、県道6号経由 約1時間 徒歩約3分
☆バ ス
・那覇バスターミナル~(沖縄バス・琉球バス読谷線)~読谷バスターミナル下車(約1時間30分)、タクシー約5分(徒歩なら約30分)
※ 観光バス、レンタカー利用が便利