日本の歴史的灯台
釣島灯台
所在地 | 愛媛県松山市 |
---|---|
点灯年月日 | 明治6年6月15日 |
塗色 | 白色 |
構造 | 円形・石造 |
光り方 | 単閃赤白互光 毎16秒に赤1閃光 白1閃光 |
光りの強さ | 赤 75,000cd 白 340,000cd |
光りが届く距離 | 20.5海里 |
構造物の高さ | 10.3m |
海面から 光りまでの高さ |
58.2m |
レンズ | LB-H 40型 |
電源 | 商用電源 |
所在地 | 愛媛県松山市 |
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点灯年月日 | 明治6年6月15日 |
塗色 | 白色 |
構造 | 円形・石造 |
光り方 | 単閃赤白互光 毎16秒に赤1閃光 白1閃光 |
光りの強さ | 赤 75,000cd 白 340,000cd |
光りが届く距離 | 20.5海里 |
構造物の高さ | 10.3m |
海面から 光りまでの高さ |
58.2m |
レンズ | LB-H 40型 |
電源 | 商用電源 |
灯塔の石材は、御影石で山口県徳山市や広島県倉橋島から船で運び、海岸から工事現場までの山道約300mは地面に板を敷き、丸太とロクロを使用して運んだ。設計者はR・H・ブラントンである。
慶応3年(1867年)4月、幕府と英国公使は兵庫開港(同年12月)に備えて大阪約定(大阪条約)を結んだ。この時の5灯台のひとつ。工事に携わったブラントン、マクビン等は日本食をとらないので、肉類など食糧いっさいは神戸から三津浜(松山)経由で送られ、三津浜からは発動機船のない時代のことであり、二丁櫓の伝馬船で運搬していた。荒天のため食糧が欠乏しても、次の便が来るまで島の果物だけを食べていたというエピソードも残っている。